松山政治思想研究会

政治学や隣接分野(哲学、歴史など)を不定期で学ぶ学生の勉強会。

知性ある個を気取ってみても

 竹内洋氏の『革新幻想の戦後史』辺りを念頭に置いて言うのだが、第二次世界大戦後の日本では、知的である事は、左翼的である事とほぼ同じである。ここでの左翼とは別にマルクス主義のような確固たる思想体系を持っていなくても良い。漠然とであれ、自由、平等、友愛、人権のような、フランス革命以後の近代的価値観を普遍的な正義だと信じており、それを根本的に批判したり疑問を抱いたりした経験のない人びとを指す。こういう素朴な人は、インテリとされる業界にも意外と多い(例えば大学)。

 そうした価値観を、ヨーロッパ中心主義的な経緯から生まれたと相対化する事はあるのだが(ポストモダン)、あくまで知識としてそのような歴史を把握しているというだけであり、それらを現実に相対化しようと提言したり、実践する事はない。それは当たり前で、その一線を越えたら、自らが伝統や共同体などの非合理的なもの、つまり右翼的な立場に依拠せざるを得なくなるのをよくわかっているからだろう。だから、彼ら多数派インテリは用意周到にそれを避ける。

 そして左翼的である事は、インテリの世界において獲得された力能や個性ではなく、既成事実となり、一種の常識となる。竹内氏が大学内で保守的な知識人を尊敬すると発言した途端に嘲り笑われるような、独特の抑圧的な空気となって個々人を縛る。もちろんインテリは主観的には少数派(ないし少数派の味方)を自認しているし、そのことを苦々しく感じてもいる。だが、彼らはその業界内では支配的な文化に与する存在なのであり、そのことが「右傾化」とはまた別の支配構造を生み出している、ということにすら無自覚な場合が多い。

 そして確実に思うのだが、したり顔でファシズムの再来を憂い、批判的であらねばならない、などと話す凡庸なインテリは、まず確実にそうした状況が訪れたら、迎合するに決まっているのである(亡命するには社会的な知名度や資源が足りない場合)。アンチファシズムの顔を纏う全体主義、それは要するにスターリニズムという事になろうか。こういう私自身、一種の「右翼インテリ」(インテリとは必ずしも職業的知識人に限定してはいない)としてのエゴを愚痴っているだけなのかもしれないが。