松山政治思想研究会

政治学や隣接分野(哲学、歴史など)を不定期で学ぶ学生の勉強会。

岸田秀『ものぐさ精神分析』(中公文庫、1982)

 精神分析者による、1970年代のエッセイ集である。一般に宗教学は「聖なるものと俗なるもの」との対比を論じるが、本書では俗なるものを更に日常的なものと穢れたものとに二分している。

 この三項対立によって、人間集団で不可避的に生じる、発狂や戦争のような「異常」現象の要因が解明される。人間はそれぞれ私的な欲望を抱くが、集団で共同化されない欲望のうち、殊更に抑圧されるものが、無意識の欲望(エス)として眠り、抑圧に堪えきれなくなった時に爆発するのである。必ずしも劇的な爆発でなくとも、芸能人のスキャンダルのような、ささいな事柄でも良い。人間は穢れたものとして、こうした欲望を糾弾する形で、自分の中にある同じ欲望を充足させようとする。もちろん戦争の場合には、人殺しや略奪のような欲望を、兵士になるなら自ずから解消させる。

 社会的に抑圧される欲望は、穢れたものとして忌避されるが、忌避されるがままでは不十分ということだろう。風俗産業や麻薬産業が完全に消滅できないのと同じだし、むしろ物理的に抹殺すると、その欲望は別の形で噴出するだろう(産業という形式を失うわけだから、当面は無秩序な様子で)。といって公的に奨励すれば良いというわけではないから難しい話である。

 人間は性欲の発生と、性器の発達とがずれたタイミングで現れる。性器の発達は性欲の発生に追いつかず、幼い頃は事実上その性欲はいわば生殺し状態にされる。だからこそ人間の性欲は動物のそれと異なり、大いにこじれていくわけだ(多様になるともいえるだろう)が、性欲に限らず、人間は他の哺乳類と比べても身体の発達が異様に遅い。サルの胎児がそのまま大きくなったのがヒトであるという学説すらあるらしい。だからこそ人間はありとあらゆる欲望を、他者との繋がりの中で補完せざるを得ない。ナマの自然的現実にほっぽり出されるわけにはいかないのである。家族なら家族という、社会なら社会という、国家なら国家という、そのままだと繋がる根拠などない人間どうしを、繋がる根拠があるかのように思わせる、それが共同幻想の役割となる。

 史的唯物論ならぬ史的唯幻論として、あくまで心理や幻想という側面から、歴史や恋愛など様々な社会現象を論じていく著者の語り口は、当時としては新鮮だったろう。今やそれが妙に行き過ぎて、90年代以後は心理学ブーム、精神分析ブームと化している気がしなくもない(下部構造の忘却)が、それでも人間の精神構造を分析していくアプローチ自体は必要だろう。人間も動物だが、その動物としての有り様が、他の動物とはまるで異なっているわけであるから。どこが異なっているかという点について著者の意を汲むと、幻想を抱くか否か、観念を抱くか否かということになろうか。