松山政治思想研究会

政治学や隣接分野(哲学、歴史など)を不定期で学ぶ学生の勉強会。

政治不信と与野党への眼差し

 面白い記事を見つけた。

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 現代日本では「コミュニケーション能力」が非常に重視されるが、反面、その具体的な定義なリ合意形成がなされているわけではない。というのも、コミュニケーションとはその都度出会う、人格も価値観も生活環境も目的も異なる、異質な他人とのやり取りであるから、マニュアルを作りようがないからだ。時には、先にあげた条件のどれかがそろい、円滑にやり取りできる事もある。が、基本的にはそれも手探りで見つけていくしかないし、はじめから「正攻法」は与えられない。

 政治もまた、わかりやすい正攻法が見出しにくい領域である。これが冷戦時代であれば、いわゆる55年体制の元で、憲法改正をはじめ様々な争点が保守と革新という対立軸で「色分け」されていた。つまり複数の社会問題に関する問題意識のパッケージが存在していた。だから人々は、人間関係のしがらみや、価値観などの条件に応じてどちらかを選べば良かったし、どちらにも容易に頷けない人は、「第三極」としてわかりやすい自己提示も可能だった(実際、ニューレフトやニューライトはそのように台頭してきた)。

 冷戦という一種の「戦時体制」が終わり、勝者アメリカの支配という「戦後体制」も911を契機に崩壊した。冷戦時代からアメリカに従属を続ける日本も、この形式崩壊という現象の中で、右往左往しているだけのように思える。そしてイデオロギーに今も昔も無縁な民衆は、まさにナショナリズム以前の前近代社会のように、「誰が支配者になっても同じ(結果として生活が良くなったら良い)」と、待ちぼうけして指導してくれるモノ、道を示してくれるモノを待望している。

 アクティブ・ラーニングが叫ばれる背景に、若者の主体性の喪失という現象は間違いなくある。主体性を発揮できるような形式なり環境が、土台から崩れ、流動化しているのだから、ある意味当然である(流動化した社会で主体性を発揮できる人間がすなわち「コミュ力」のある、あるいはグローバルな成功者とされる)。アクティブ・ラーニング以前の、緻密な文献読解のような「詰め込み型」の方が、本当に扱われている問題に関心のある学生にとっては、疑問や反論の提示という形で、主体性を案外発揮できるものである。

 かつては与野党をこえた政治的な形式があり、それが支持政党の選択といった個別具体的な政治行動を支えていた。だが、形式が崩壊した現在、政治行動を自発的に起こしにくい環境にある。そして、それは政治の世界に限らない現象のように思われる。