松山政治思想研究会

政治学や隣接分野(哲学、歴史など)を不定期で学ぶ学生の勉強会。

福田和也『地ひらく:石原莞爾と昭和の夢』(文春文庫、2004)

 先ほど読み終えた。満州事変の首謀者として名高い、軍人・石原莞爾の生涯を軸に、明治から昭和前半までの日本の近現代史を綴った歴史評伝である。

 歴史の不可逆性は、私たちに宿命の苛烈さだけを教える。後から来る者の有利さという分かり易い驕りのためばかりではない。むしろ歴史は必然をしか教えず、また私たちが学ぶべきものも、宿命でしか在り得ないからだ。宿命を侮る者は、知識を弄ぶ者であるだろう。だがまた、私たちは、その必然の頸木の強さ、恐ろしさを知るためには、可能性の広漠さをもまた知らねばなるまい。

 近現代史を単に知識としてではなく、また単に価値判断の道具としてではなく、その時代を生きた人間の生き様から理解したい。そのような思いを少年時代から漠然と感じていた私にとり、福田氏のモチーフは非常に共感できるものであった。

 歴史は可能性や自由に満ちている。「あのとき、ああすればもっと」と、思いをめぐらせることはできる。だが、それは得てして万能感に陥りやすい。また他方で、こうした価値判断から目を背け、実証研究に精を出せば良しとする、誠実だがどこか取るに足りない観想的態度もある。そのどちらにも学ぶべきところはある。だが、そのどちらにも完全に与したいとは思わない。

 歴史は可能性や自由に満ちている。だがそれを汲み取り、後世に、私たち自身の生き様を通じて継承するためには、絶えずその時代がいかなる環境に制約されていたか、必然性や不自由さを直視しながら、それらとのぎりぎりの(一回きりの)格闘の中で、光芒を重ねてきた先人に、文字通り身を重ねてみるしかないのではないか。

 だから、帝国時代の現象を遺産として受け継ぐために、帝国時代を単に貶めたり、その逆に全肯定したり、あるいはひたすら客観的に観察するだけでは不十分である。あの過去を生きた歴史として受け継ぐには、私たち自身が歴史を切り開く構えを養わなければならない。

 ともかく本書は、西洋も含めた近現代史を一貫した歴史的思考で叙述する、見事な「歴史書」であった。

私憤≒公憤のはけ口、インターネット

 ネットで「社会に物申す」人の置かれた状態は、何かあれだな、いじめられっ子が「次いじめたらキレる、次いじめたらキレる」とブツブツ脳内で願掛けしながら、結局現実には何ら行動しないのと似たメンタリティなのではないか。そういう経験が私にはあるのでつい不謹慎(?)に思いつく。

立花隆他『揺らぐ世界』(筑摩書房、中学生からの大学講義シリーズ4)

 約一年ぶりに新規メンバーが入り、慌てて「何か話題集めをしておこう」と思い、手にとったのが本書である。普段から真面目に勉強会の方向性を決めておかないから、付け焼き刃の対応をとることになるわけだが。

 本書は中高生向けに、様々な知的分野のプロフェッショナル達が、自身の精通する社会問題について易しく説き明かしている。その全てについていちいち言及する余裕はないが、印象深かった箇所についてのみ、感想を記そうと思う。

 

  あえて一番にあげるとしたら、立花隆氏の講演録だった。これを読んで、相変わらず「戦争」というレトリックが日本人は大好きなんだな、と思わせられた。

 1945年の第二次世界大戦での敗北を「第一の敗戦」としており、90年代初頭のバブル崩壊を「第二の敗戦」、そして2011年の東北震災を「第三の敗戦」と位置づけている。氏自身は敗戦の第一世代として、トラウマ的体験から力強く生きるバイタリティを得たと自負しており、講演を聴く子どもたちも第三世代として、政治的・経済的にますます混迷を深める世界の中で、たくましく生きていってほしいとするメッセージが伝えられる。

 1940年生まれの立花氏が、まるで戦争の全てを実感として知っているかのように言うのは、いささか違和感もあるが、しかし確かに青少年に比べたら圧倒的に「戦争経験」は豊富だろう。

 意外なのは、「敗戦」という現象にある種の希望を見出しているのにもかかわらず、第二の敗戦たるバブル崩壊にはほぼ言及してないところ。明言していないが、恐らく氏が想定しているのは、バブル崩壊時に青年だった、いわゆる「ロスジェネ」の人たちだが、彼らは暗に侮蔑されている。こんなことで大丈夫なのか、と。何だかこの眼差しには既視感がある。 

 同じシリーズの別巻にも出ている北田暁大氏がさんざん批判しているような「経済軽視」の態度。これからの社会は何が起こるかわからないと言っておきながら、最後にはこれから君たちが成長する社会は破綻するだろう、と主観的な終末論を煽る。既視感しかない。財政均衡を無批判に前提としている辺りも、日本の左派にありがちだろう。 戦争というレトリックを使いたいなら、現実に目の前で展開している派遣切り、違法労働、ワーキングプアなどの身近な社会現象こそが、生きるか死ぬかという戦争そのものと化していることに目を向けるべきではないか。 

 何だか立花氏をディスってるみたいで恐縮なのだが、そんなつもりはない。『日本共産党の研究』を始め、歴史的にも意義のある、優れた著作は多いし、愛読している。が、青少年に語るスタイルが露骨に今どきの左翼そのままだったので、つい色々言いたくなっただけである。15年安保のころから、ずーっと違和感のある、左の精神論。 

 立花氏以外の話は、それなりに勉強になる。とくに岡真理氏と森達也氏の文章は必読だろう。パレスチナとオウムという「人権の彼岸」で、彼らがどんな仕打ちを受けているか、私たちが異物として忌避したり排除したりすることに、現代社会のどんな根深い病理が潜んでいるか、を探るには格好の入門になると思う。 

 フランス革命以来の原則的な左翼というのは、普遍性を重んじる立場なわけだが、70年以上前の戦争・敗戦という出来事を、言葉遣いのレベルで現在の出来事と辻褄を合わせるのではなく、そこから抜き出せる教訓や本質・真理から、様々な現象を分析していく眼を養う方向にはいかないのだから、まことに不思議だ。 まあ、そんなんだから今や第二次世界大戦の記憶が、老いぼれの昔話か好事家の趣味にしかなっていないのだろうが。輿那覇潤氏のエッセイを読んで少しは頭を冷やしてほしい(https://books.bunshun.jp/articles/-/4225)。

暑すぎる

 このところ連日、列島中で30度超えの気温が続いています。もう外出したくないくらい。
 で、「昔はもっと涼しかった」という話がネットから漏れ聞こえてきますが、何故でしょうか。家族に聞いてみたら、水田が減り、ビルが次々と建築されているからだろう、とのこと。
 おお、確かに。打ち水やろう、打ち水。熱をためる(のか?)金属やコンクリートは減らし、打ち壊しましょう。豊かな自然を取り戻せ!などと息巻いていたら、「そうなれば虫が増えるぞ」と冗談めかして脅されました。虫は大の苦手です。というかこれを書いている今も、エアコンから黒虫が侵入してきて、慌てて殺虫剤をまきました。たぶん死んでいるはず…怖い怖い。
 この暑さで死人も出てるらしいです。命にかかわると言っておきながら、平然と通勤や通学は行う間抜けな私たち。最近、この受け身の姿勢というものに心底嫌気が差しています。この勉強会だってはじめて一年、迷走気味だし。なんでも良いから動かないと仕方ない。
 結局、みんな誰かがやってくれることに期待してるんですよね。それで、あわよくば自分もそれに乗っかろうとしている。リスクやコストがかかりそうなら近寄らず、ボーッと日常をダラダラ過ごす。
 ああ、腹立たしい。この猛暑は、飢餓に匹敵する行動の原動力となりうるのか…?
 などと意味不明に息巻いて、明日はたっぷりと休みを満喫するつもりなのでありました。
 

政治不信と与野党への眼差し

 面白い記事を見つけた。

gendai.ismedia.jp

 現代日本では「コミュニケーション能力」が非常に重視されるが、反面、その具体的な定義なリ合意形成がなされているわけではない。というのも、コミュニケーションとはその都度出会う、人格も価値観も生活環境も目的も異なる、異質な他人とのやり取りであるから、マニュアルを作りようがないからだ。時には、先にあげた条件のどれかがそろい、円滑にやり取りできる事もある。が、基本的にはそれも手探りで見つけていくしかないし、はじめから「正攻法」は与えられない。

 政治もまた、わかりやすい正攻法が見出しにくい領域である。これが冷戦時代であれば、いわゆる55年体制の元で、憲法改正をはじめ様々な争点が保守と革新という対立軸で「色分け」されていた。つまり複数の社会問題に関する問題意識のパッケージが存在していた。だから人々は、人間関係のしがらみや、価値観などの条件に応じてどちらかを選べば良かったし、どちらにも容易に頷けない人は、「第三極」としてわかりやすい自己提示も可能だった(実際、ニューレフトやニューライトはそのように台頭してきた)。

 冷戦という一種の「戦時体制」が終わり、勝者アメリカの支配という「戦後体制」も911を契機に崩壊した。冷戦時代からアメリカに従属を続ける日本も、この形式崩壊という現象の中で、右往左往しているだけのように思える。そしてイデオロギーに今も昔も無縁な民衆は、まさにナショナリズム以前の前近代社会のように、「誰が支配者になっても同じ(結果として生活が良くなったら良い)」と、待ちぼうけして指導してくれるモノ、道を示してくれるモノを待望している。

 アクティブ・ラーニングが叫ばれる背景に、若者の主体性の喪失という現象は間違いなくある。主体性を発揮できるような形式なり環境が、土台から崩れ、流動化しているのだから、ある意味当然である(流動化した社会で主体性を発揮できる人間がすなわち「コミュ力」のある、あるいはグローバルな成功者とされる)。アクティブ・ラーニング以前の、緻密な文献読解のような「詰め込み型」の方が、本当に扱われている問題に関心のある学生にとっては、疑問や反論の提示という形で、主体性を案外発揮できるものである。

 かつては与野党をこえた政治的な形式があり、それが支持政党の選択といった個別具体的な政治行動を支えていた。だが、形式が崩壊した現在、政治行動を自発的に起こしにくい環境にある。そして、それは政治の世界に限らない現象のように思われる。

懇親会やりました

 先ほどまで懇親会を開いてました。新規加入者を歓迎する目的で、世間話や自分語りから、政治や経済あるいは歴史にまつわる諸問題について簡単な意見交換をしたりと、中々に充実した会でした。
 いわゆる保守王国・愛媛県ブラック企業とかアベノミクスとか、ファシズムとかフーコーとか難しい用語が次々と飛び交うのって何か凄い。学生の全く自発的な集まりが、ですよ。と、自画自賛してモチベを高めます(笑)。
 会では運営状況をめぐって建設的な批判もいただきました。やりたいことが不明確な上に、相手を勧誘する意欲が薄い(相手の自発性を尊重するあまり)となると…。まあ、人は集まりませんよね。面目ない。
 今後、もうちょっと積極的に活動展開していきますので、どうかよろしくです! とりあえず次回は今週日曜に合評会やります。おすすめの本や映画を紹介しあうやつです。詳しくはツイッターにて。

偶然の産物による会議

 今日は、たまたまメンバーと出会い、そのまま活動の打ち合わせも兼ねて、歓談しました。
 明後日、新規加入者の歓迎会がありますが、さてどう出迎えるべきかと頭を抱え。とりあえず何か一つ意気投合できる話題が見つかれば、話は早いだろうという形で落ち着きました(のか?)。
 筑摩書房から出ている「中学生からの大学講義」シリーズの4巻『揺らぐ世界』などは、戦争、難民、テロなど、ホットな問題が目白押しで語られており、参考になるなと感じ、管理人が今読んでいるところです。今のところ森達也さんの話が一番勉強になります。立花隆さんは、『日本共産党の研究』を始め好きな著作は多いけど、この本に限れば少し押しつけがましさを感じる。とはいえ中身は重要な内容だから、これから読んでいきます。