愛媛大学政治思想研究会

大学非公認のインカレ学術サークル。政治思想を中心に人文社会科学について学んでいます。

新元号について

 平成の後に続く新しい元号だが、日本の古典も選択肢に入れて検討するらしい。言われてみれば、明治以来、元号は中国の古典から採用されたものばかりである。

 これを受けて、「中国なんかから借りるのはイヤだから」という安易な理由ゆえに誤った使い方の元号が定着してしまったらどうしよう、などという懸念がツイッターでされていたが、そうならないことを祈る。

 ただ、「安倍政権のことだから、安倍の字を入れるんじゃないか」などという低レベルな愚痴に比べたら、中身のある議論が元号関連で久々に出てきたという感じはする。

 あと興味深いのは、元号変更に伴うカレンダー業者などの苦労を慮っていないという批判もされる。要は生前退位を発表されたのだから政府はさっさと新元号を公表せよということだろう。確かにその通りだ。

 出し惜しみしているのかは知らないが、あと数十年は使うことになるのだから、早めに出してほしい。元号そのものを批判する声はほぼ皆無で、みな思い思いの「平成最後の○○」を満喫しているようだ。個人的には西暦と皇紀を併用してはどうかと思うが、やはり天皇一代一代の存在感を示すには元号が便利なのだろう。

風邪で療養中

 おそらく精神的な疲労が原因で風邪をひきました。今日はほぼ寝込んでいた。明日には治ると思います。

 それにしても、ツイッターを見ていると実に不毛な争いが多い。アイデンティティポリティクスが吹き荒れている。やれオタクは気持ち悪いだの、女(男)がおかしいだの安倍信者は理解不能だの。

 ネットでグチグチ勇ましい人に限ってリアル世界では何もしてないのではなかろうか。脳内で仮想敵と延々と闘っているばかりだから、何の根拠もなく敵が肥大化して、対峙する自分も万能感を膨らませるばかりなわけだが、そろそろ落ち着いてはどうか。

 思わずノンポリに転向したくもなる。こういうメジャー政治の煩わしさから脱却する意味でも、案外革命路線は悪くないのかもしれない…。

8月2度目の懇談会

 前回に引き続き、ゲスト参加の方と懇談会で交流しました。浪人生の方で、愛媛県出身だが、趣味の関係上、首都圏の大学を目指したいのだそう。最初から四国は眼中にないみたいで、この辺りは地方の文化的な不毛ぶりが露呈していると思いました。

 サークル活動の話やお互いの自己紹介をしているうちに、話題は現在の政治情勢や様々な社会問題に関する方面へ。

 劣悪な労働環境の改善など、身近な生活課題を解決してくれる受け皿が存在しない、というのはまさにその通りで、象徴的にはメーデーの日に労組が護憲や政権批判などの様々な政治的主張を引っさげている分、一般人は近寄りがたいのではとする意見には説得力があります。

 ただ、管理人個人は、経済的な主張と政治的な主張とを結びつける方法そのものにはあまり異論がないです。むしろ現政権のやり口を見てると、政治的な主張を通す手段として経済政策がそれなりの効力を発揮している状況なので、左翼もどんどん同じことをやれば良いと思います。ただ、政治的主張を本当に実現させたいのなら、経済政策にも関心を持たなければ意味がないよということで、この辺は『そろそろ左派は〈経済〉を語ろう』でも論じられている通り。

 どうも安倍政権の「政治腐敗」は、往時の発展途上国開発独裁に似ていなくもないのです。法の支配ならぬ人の支配が横行してモラルが踏みにじられながらも、経済成長を強引に推し進めて、一応民衆の無言の支持は獲得するという仕組みです。国外を見てみてもドゥテルテ、トランプ、プーチンなど、強権的指導者が目立ちます。冗談抜きに右翼ポピュリズムファシズム?)の時代は近づきつつあるのかも。

 そういえば、民主主義を超える政治形態としてファシズムの到来が真面目に予見されもしました。議会政治の結果政権を獲得したナチスが好例ですが、民主主義の極限化した形態がファシズムである、という側面が確かにあります。民衆の支持や動員に関心を示す右翼政権は、前近代的封建制専制君主制とは異なり、デモクラシー体験を一応は通過している分、より強力で手強い存在となるでしょう。

 私自身は、安倍政権の経済政策が「他よりマシ」である以上、消極的に追認せざるを得ないと考えています。思うに、民主主義(リベラルな)は、こうした消極的な「○○よりマシ」という発想が根底にあります。積極的な正義を掲げる政治体制なら、ファシズムにせよ共産主義にせよ、強権的なものにならざるを得ませんが、リベラルな民主主義は絶対的な正義を認めない(よく「民主主義は多数決が全て」と皮肉られますが、リベラルな民主主義はその制限も相対化するべきという目的意識を本来は持ちます)ので、たびたび意見や利害を調整しつつ、ほどよい落としどころを見つけて話が進みます。

 安倍政権の隆盛の一つには、こうした派閥や利益団体に支えられた古典的な(第二次世界大戦後以後の)民主主義体制が崩壊しているということが背景にあるでしょう。

 ……とまあ、それ自体としてはよく言われていることを長々と話しながら、しかし実際に顔を合わせて議論すると中々面白い発見も多く、充実した一日でした。

 そういえば、参加者が全員、当初はネトウヨ的な思想だったらしいのですが、いわゆるネトウヨの社会的バックボーンって何なのでしょうか。かつては貧しい若者がといわれながらも、最近はほどほどに裕福な中年の存在が指摘されています。が、裕福といっても経済的な没落の危機を無意識に感じている層だとは思うのですが…。むしろ、階層を超えて包摂するところに、このイデオロギー(通常の日本の右翼思想とも異なる気がします)の魅力があるのかも。

 次回は、外山恒一氏の「マルクス主義入門前篇」を読む社会主義研究会を開く予定です。めちゃくちゃ面白いしタメになるのでぜひ来てね。文系学生は必読だと思います。

映画『ライフ・イズ・ビューティフル』上映会

 1997年のイタリア映画『ライフ・イズ・ビューティフル』を観ました。さる方のご厚意で、オフィシャルな会場をお借りした上での上映だったため、飛び入り参加などを期待していたのですが、残念ながらゼロでした。今後も開くかもしれませんので、今回行きそびれた方は、その時にでもぜひ。

 さて、肝心の映画について、管理人の感想を若干述べていきます。

 まず、本作を観た動機から。体験入会中のメンバーから薦められたことが直接のきっかけでしたが、内容的にも興味深いものだと感じたところがあります。というのも、本作は第二次世界大戦中のユダヤ系イタリア人を描いた物語なのです。

 一般的に、ユダヤ迫害といえばドイツを念頭に語られます。しかし迫害自体は、実のところヨーロッパ全域で進行していました。イタリアにおいても、ムッソリーニ政権がドイツと接近する(当初はどちらかといえば緊張関係にありました)につれ、ユダヤ系の国民に対する差別政策が進みますが、伝統的に見れば、イタリアはそれほど反ユダヤ主義の盛んな地域ではありませんでした(おそらく古代以来、イタリア半島が国際的な商業圏として栄えてきた経緯が、背景にあるのでしょう)。

 第二次世界大戦の半ばにイタリアは降伏しますが、イタリア半島が敵国の手に渡るのを恐れたドイツのヒトラー政権は、拘束されていたムッソリーニを救出、彼を元首として半島の北部に傀儡国家を樹立させます。その後確かドイツが降伏する間際まで、この傀儡国家はドイツ軍の抵抗もあり、しぶとく存続していたと思います。

 『ライフ・イズ・ビューティフル』の主人公たちは、そんな大変な時期に北イタリアで暮らしていたのでした。このような歴史的背景を知識としておさえておけば、本作は更に楽しめると思います。なぜイタリアに異様にドイツ兵が数多くいたのかも、戦争の推移と密接に関わりがあるのでした。

 前置きはこの辺りで、感想をいくつかあげていきます。

 まず、作品前半での独裁国家らしからぬ当時のイタリア社会の「明るさ」が印象深かったです。もちろん、そのムードは主人公の喜劇的な才能というか人格に支えられているところが大です。しかし、第二次世界大戦直前だというのに、周囲の住民もそれほど深刻な様子ではなく、むしろ朗らかに日常生活を過ごしています。数年前にイタリアはアフリカのエチオピアを戦争の末に領有することに成功しており、国民の感覚としてはむしろ「戦勝後」だったのかもしれません。戦争への危機感は、現実に領土問題を抱えていた、アルプス以北のドイツや東ヨーロッパ諸国の方がより強かったでしょう。

 大戦直前にイタリアはドイツと同盟を結んでいたからか、すでにユダヤ系の主人公に対する蔑視や攻撃も見られますが、全体としては、ユダヤ系の移民男性と在地のお嬢さまのハチャメチャな恋愛劇が展開します。さすがイタリアというべきか、男性のナンパなアプローチが見ていて気持ちいいですね。

 また、政治に具体的に口出しさえしなければという留保はあるものの、戦時中の日本のように四六時中官憲が歩き回っているような重苦しい管理社会ではなさそうで、この辺は実に過ごしやすそうでした。自由と平等を建前に、国民を過酷な経済競争に追い立てるリベラルな資本主義先進国より、逆らいさえしなければ衣食住と娯楽を最低限保障する権威的な資本主義社会の方が、大多数の「普通の人」にとっては気が楽でしょう。

 松尾匡他『そろそろ左派は経済を語ろう』といった近年の社会評論の議論を念頭に思いますが、政治を倫理的に善悪で裁断することに夢中な、「財産と教養」のあるインテリの人々は、その日暮らしにカツカツな民衆の機微に、どの程度想像をめぐらせているのか。ムッソリーニ政権は少なくとも工業や農業など各種産業の生産力を統制経済で向上させ、国民の支持を獲得していました。安倍政権がムッソリーニ政権とそっくりだとは思えませんが、少なくとも景気回復を掲げる現政権に対して、「政治的な腐敗」を断罪して事足れりとする今のリベラル派の世論は、伝統的な「自民党嫌い」の文化を超えていないでしょう。

 さて、後半からは、主役の男女が結ばれて一人息子を授かります。後半戦で印象的なのは、父親が息子に対して演じる徹底した喜劇設定です。強制収容所に連行され、苦しい生活を強いられるのは、実はゲームであり、一等賞の人は戦車に乗って帰れるのだ…。息子を絶望させまいと必死に明るく振る舞う父親の姿は悲劇的ですらありますが、ウソもここまで徹底されたら見事なもので、息子は最後までそれを信じて、過酷な収容所生活を切り抜けます。この辺りは、人生論的に、苦しい時こそ笑顔を忘れるなという素朴なメッセージ性を感じた程度でした。しかし、私自身は本当に辛い時に本作を観たので、この立ち振る舞いは結構参考になりました。

 様々な偶然が重なり、父親のウソは最終的に本当になります。その結末は実際に観て確かめるのが一番でしょう。国際的な高い評価に恥じない名作でした。

 

懇談会&講演会

 昨日は、愛媛に帰省中の学生さんを交えて懇談していました。いわゆる都会住まいの方だったため、関西や首都圏の大学や社会問題・社会運動をめぐる動向や、地方の特殊性(可能性?)について示唆をいただくなど、非常に学ぶべきところの多い会合でした。

 その後は、メンバーと以前参加した政治哲学系の研究会について感想交流。このような集まりは本題後の懇親会(飲み会)の方が圧倒的に面白く、今後サークルでもやるようにしたいと(勝手に)決意。夏休み中の活動についても、ある程度方向性は固まってきたと思います。

 解散後、管理人は個人的に思うところがあり、著名人の講演会に出席しました。革新系か保守系かでいえば後者で、ポリティカルコレクトネスの波に非合理的な伝統がいかに立ち向かえるのか、についての(不)可能性を論じている姿が印象的だった。単に反射的に守旧するつもりではないらしい。

 次回の活動は、7日の映画会ですが、最悪管理人ひとりで行くかもしれない。学生さんで行けそうな人がいたら、ツイッターから連絡ください。こんな作品を観ようと思っています(https://youtu.be/J0oYP6DxC-U)。

知性ある個を気取ってみても

 竹内洋氏の『革新幻想の戦後史』辺りを念頭に置いて言うのだが、第二次世界大戦後の日本では、知的である事は、左翼的である事とほぼ同じである。ここでの左翼とは別にマルクス主義のような確固たる思想体系を持っていなくても良い。漠然とであれ、自由、平等、友愛、人権のような、フランス革命以後の近代的価値観を普遍的な正義だと信じており、それを根本的に批判したり疑問を抱いたりした経験のない人びとを指す。こういう素朴な人は、インテリとされる業界にも意外と多い(例えば大学)。

 そうした価値観を、ヨーロッパ中心主義的な経緯から生まれたと相対化する事はあるのだが(ポストモダン)、あくまで知識としてそのような歴史を把握しているというだけであり、それらを現実に相対化しようと提言したり、実践する事はない。それは当たり前で、その一線を越えたら、自らが伝統や共同体などの非合理的なもの、つまり右翼的な立場に依拠せざるを得なくなるのをよくわかっているからだろう。だから、彼ら多数派インテリは用意周到にそれを避ける。

 そして左翼的である事は、インテリの世界において獲得された力能や個性ではなく、既成事実となり、一種の常識となる。竹内氏が大学内で保守的な知識人を尊敬すると発言した途端に嘲り笑われるような、独特の抑圧的な空気となって個々人を縛る。もちろんインテリは主観的には少数派(ないし少数派の味方)を自認しているし、そのことを苦々しく感じてもいる。だが、彼らはその業界内では支配的な文化に与する存在なのであり、そのことが「右傾化」とはまた別の支配構造を生み出している、ということにすら無自覚な場合が多い。

 そして確実に思うのだが、したり顔でファシズムの再来を憂い、批判的であらねばならない、などと話す凡庸なインテリは、まず確実にそうした状況が訪れたら、迎合するに決まっているのである(亡命するには社会的な知名度や資源が足りない場合)。アンチファシズムの顔を纏う全体主義、それは要するにスターリニズムという事になろうか。こういう私自身、一種の「右翼インテリ」(インテリとは必ずしも職業的知識人に限定してはいない)としてのエゴを愚痴っているだけなのかもしれないが。

岸田秀『ものぐさ精神分析』(中公文庫、1982)

 精神分析者による、1970年代のエッセイ集である。一般に宗教学は「聖なるものと俗なるもの」との対比を論じるが、本書では俗なるものを更に日常的なものと穢れたものとに二分している。

 この三項対立によって、人間集団で不可避的に生じる、発狂や戦争のような「異常」現象の要因が解明される。人間はそれぞれ私的な欲望を抱くが、集団で共同化されない欲望のうち、殊更に抑圧されるものが、無意識の欲望(エス)として眠り、抑圧に堪えきれなくなった時に爆発するのである。必ずしも劇的な爆発でなくとも、芸能人のスキャンダルのような、ささいな事柄でも良い。人間は穢れたものとして、こうした欲望を糾弾する形で、自分の中にある同じ欲望を充足させようとする。もちろん戦争の場合には、人殺しや略奪のような欲望を、兵士になるなら自ずから解消させる。

 社会的に抑圧される欲望は、穢れたものとして忌避されるが、忌避されるがままでは不十分ということだろう。風俗産業や麻薬産業が完全に消滅できないのと同じだし、むしろ物理的に抹殺すると、その欲望は別の形で噴出するだろう(産業という形式を失うわけだから、当面は無秩序な様子で)。といって公的に奨励すれば良いというわけではないから難しい話である。

 人間は性欲の発生と、性器の発達とがずれたタイミングで現れる。性器の発達は性欲の発生に追いつかず、幼い頃は事実上その性欲はいわば生殺し状態にされる。だからこそ人間の性欲は動物のそれと異なり、大いにこじれていくわけだ(多様になるともいえるだろう)が、性欲に限らず、人間は他の哺乳類と比べても身体の発達が異様に遅い。サルの胎児がそのまま大きくなったのがヒトであるという学説すらあるらしい。だからこそ人間はありとあらゆる欲望を、他者との繋がりの中で補完せざるを得ない。ナマの自然的現実にほっぽり出されるわけにはいかないのである。家族なら家族という、社会なら社会という、国家なら国家という、そのままだと繋がる根拠などない人間どうしを、繋がる根拠があるかのように思わせる、それが共同幻想の役割となる。

 史的唯物論ならぬ史的唯幻論として、あくまで心理や幻想という側面から、歴史や恋愛など様々な社会現象を論じていく著者の語り口は、当時としては新鮮だったろう。今やそれが妙に行き過ぎて、90年代以後は心理学ブーム、精神分析ブームと化している気がしなくもない(下部構造の忘却)が、それでも人間の精神構造を分析していくアプローチ自体は必要だろう。人間も動物だが、その動物としての有り様が、他の動物とはまるで異なっているわけであるから。どこが異なっているかという点について著者の意を汲むと、幻想を抱くか否か、観念を抱くか否かということになろうか。